逗子、湘南の歯科(歯医者)田中歯科クリニックです。一般歯科、小児歯科、審美歯科、ホワイトニング、インプラント、口腔外科、矯正歯科等の治療を行っています。急患も受け付けます。

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6代目得寿堂


2024.11.21

2024年、私、医療法人聖徳会田中歯科クリニック理事長の田中俊樹が、6代目「得寿堂」に就任しました。

日本の医療は、聖徳太子の飛鳥時代(608年)に遣唐使であった小野妹子や隋からの使者裴世清などによって仏教と共に中国よりもたらせられました。それは、東洋医学の基本を成す漢方、鍼灸、気功などを含んだ中国最古(紀元前3〜4世紀)の医学書「黄帝内経」などでした。 聖徳太子の薬草刈りの記録や四天王寺の建設は、 仏教寺院としての役目だけではなく病気治療や福祉の目的とした日本で最初の医療施設を併設していました。 聖徳太子の医療思想は、「慈悲」と仏教的な観点からの癒しに基づいており、 仏教僧が医療技術を学び身体的治療にとどまらず精神的な支援活動をもしていた記録が残っています。これが、日本の医療の始まりです。 西洋医学が伝わるまで、約1000年の時を経て 薬師如来に 回復を祈るなどの日本独自の東洋医学が根付いていました。

 西洋医学は、江戸時代の鎖国令1639)が、公布されていた日本に、唯一西洋からの文化や技術の関所となっていた長崎の出島に初めて入って来たオランダ医学から始まります。当時オランダの貿易船に乗ってやってきたオランダ人医師達からオランダ医学の外科医学を中心とした人体解剖図の「解体新書」(1774)が、長い時間をかけて新しい情報として日本に入ってきたのです。 この書は日本の医師杉田玄白らが、1771年にその原本となった「ターヘル・アナトミア」(1734年、オランダ人医師ラルドゥス・ディクテン著)を翻訳したものでした。またこの書をさかのぼると1722年のドイツ人医師ヨハン・アダム・クルムス著「Anatomische Tabellen」の翻訳本でした。 さらにさかのぼりその解剖図は、1500年代初頭に天才レオナルドダビンチの解剖学手稿に描かれている人体解剖図が、ルネサンスの 文化革命の波に乗りヨーロッパ全土に広がったものと考えられます。

江戸時代末期、最先端医療を目指す日本の医師たちは、西洋医学の 治療情報を学ぶ為に長崎出島のオランダ商館に集まりました。 そこで、オランダ人医師のヤン・クルテンは、日本人医師に天然痘の治療法や 外科手術を教えていました。その後、ドイツ人医師のシーボルトらが、長崎に「長崎養生所」を 設立し西洋医学の 教育の中心地となりました。このような時代背景が、もたらした西洋医療技術もさることながら、最も大切な事は、そこに集まった医師達の最新の医療を学び最良の医療を患者に施す為の医療技術を学ぼうとする「医は仁術成り」の志の精神ではないでしょうか。

初代「得寿堂」の大串春園もその1人でした。当時、長崎の深堀には、幕府の命令で、黒田藩と鍋島藩の支藩が交代で、海外からの防衛と貿易やキリスト教の乱入を監視をするための関所の役目を命じられていました。田代家の本家のあった鍋島深堀藩に30代鍋島茂鹿が、君臨していました。大串春園は、当時の最先端の西洋医学を学び「得寿堂」を屋号として鍋島茂鹿の御殿医に成りました。2代目「得寿堂」を受け継いだ大串菅蔵は、31代鍋島茂明に仕えた著名な漢方医であり、その上にオランダ医学も学んでいました。明治に入り、2代目に嫁に入った田代家の長女タカの一族に跡継ぎがなくなったために、大串菅蔵の次男の大串良顕が、田代家に養子に入り田代の性を引き継ぎ田代良顕とし 3代目「得寿堂」 となった。 長崎医学専門学校を卒業した後、海軍医として 第3艦隊の軍医長を務め海軍大佐となり、日本軍が統治した中国の上海では、医局長を務めた。当時上海で流行していたコレラ撲滅に奮闘した記録が残っている。一男三女の子宝に恵まれ長男の秀才であっt田代泰が、4代目「得寿堂」引き継ぐ流れになっていた。しかし大学受験時に第二次世界大戦が勃発する中、父良顕より「なんも医者に成らんでもよか、そのかわり医者より偉かもんに成れ」と言われ、東京大学の物理学を専攻し最新兵器開発の技術者になる道を選び、後に弾道学の権威者として防衛大学の教授に就任し叙勲されている。一方、長女田代種子は、東京四谷の雙葉高等女学校の寄宿生となりキリスト教の修道女達と生活を共にし育った。そこでキリスト教徒になるための洗礼を受け、洗礼名ベルナデッタ種子となった。私の母である。終戦後、お見合い結婚の相手は、父田代良顕が、代々島原藩医の家系であった田中家四男の若い軍医であった田中四郎に白羽の矢を放った。私の父である。 九州医療専門学校を卒業後軍医として 中国に出征、 終戦帰国後直ぐに結婚の話がまとまった。お見合い結婚でだされた母のただ1つの条件は、生まれてくる子供全てにキリスト教の洗礼を受けさせる事であった。その約束通り、姉一人兄弟三人は、全員カトリックの幼児洗礼をうけている。 ちなみに私の洗礼名は聖ペトロです。 初代ローマ法王となった人物です。 3度キリストを裏切りその後改心した ことが聖書に書かれています。新婚当初は、兄田中豊一の総合病院田中医院(兵庫県尼崎市)に小児科医として勤務。 神戸大学医学部で博士号を授与されその後、神戸市で小児科医を開業。その時、直ぐに母の兄田代泰が、父の元に訪れ、田代家の家宝であった「得寿堂」の看板を父に託し、小児科医田中四郎医学博士が、4代目「得寿堂」を受け継ぐことに成りました。ただ、父は、禅宗の流れを組む島原藩医の田中家の一族の一人であった為、表立って「得寿堂」を表記せずにいた。田中医院には、屋号似優る座右の銘が、代々伝わっていた。それは、「仁は腕に在り」です。 本医院でも 田中歯科クリニック開業時に、禅宗の内藤老子により賜った書を掲げています。

父は、ミッション系の高校出ていたためキリスト教に対して知識があったが、戦中派の無心論者となっていた事もあり死ぬ直前に洗礼を受けると公言していた。そして、95歳に老人ホームに神父が来て洗礼式を行い、洗礼名ヨゼフとなり他界した。

父が、他界した後長男の循環器内科医田中良樹医学博士が、実家の田中医院を引き継ぎ5代目「得寿堂」となった。兄は、日本歯科医師会へ兵庫県歯科医師会より代議員として出向していた。また阪神大震災のときには、災害ボランティア医師として活躍し、その経験を踏まえて各地で講演を行っていた。

そして、2024年、61年の歴史を持つ田中医院を兄田中良樹が、引き継いだが医者の跡取りがいなかったため閉院の運びとなった。

そこで、突如次男の私が、6代目「得寿堂」引き継ぐこととなった。

「得寿堂」の屋号は、すでに母の妹三好(旧姓田代)清子の長男、三好是久(従兄弟)が、用いており東京千駄木でクリオセラピーの治療家として活躍している。

今後、私の専門としている歯科における最も重要で、すでに 専門学会で数多く発表している最先端の「咬み合わせ治療」と連携していく所存です。