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私の歩んだ道  Part-2.-1


2020.09.23

田中俊樹の自分史と研究略歴
 
私のルーツと歩いた道
この本の著者は、父の田中四郎です。
 

 
ここでは最初の(序)だけを紹介します。
近いうちにネット上に保存公開予定。


 

 
これに続き、長男の兄良樹が、自分史を昨年出版した。
これは、私流の第3弾と言う事なる。私は、作家の端くれでありますが、今回は事実に基づくドキュメントです。
 
1952年10月私は.、父四郎の次男として兵庫県の西宮で生まれ、17歳まで神戸で育った。
父方の祖父は、代々医者の家系の安藤家に生まれたが、12人兄弟であったためか、
幼少期から許嫁であった裕福な祖母の田中家に安藤家から養子に入いり医者になっていた。
当時は、長崎の出島から入ってきた最先端のオランダ医学を学んだ長崎の医者だった。
 
そして、6人の子宝に恵まれ父四郎は、兄弟の末っ子。3人の兄と2人の姉の中で育った。
父が12歳の頃、祖父豊樹が亡くなり、長男の豊一が、九州大学の医学部を卒業し、
父親代わりとなり中学に上がったばっかりの父を医者にまで育てあげた。
幼少の頃より神童と呼ばれたという豊一は、父亡き後一族を引き連れ大志をいだき福岡へそして、
関西の尼崎に上京し田中病院を立ち上げた。
30年後には、総合病院の院長としてまた地元の名士のライオンズクラブのガバナーとして地域の
ボランティア活動に奮闘していたと聞く。
 
この写真は、昭和27年正月、この年の10月15日に私が生まれたことを考えると、
もしかしたらこの夜私は父から母の元へ旅立ったかも!
などと想像すると、私にとっては何か不思議な大事な写真なのだ。
母は、それを知っていたのか私のアルバムの最初のページにこの写真を貼っていた。
 

 
写真中央のメガネ無しの口ヒゲの紳士が、本家田中家家長、田中病院院長田中豊一。
前列向かって右から3人めのメガネの白衣姿が父四郎。
 
現在でも、親族に20人以上の医者を持つ医者一族だ。
そのステイタスとプライドが、一族の団結を強めていた。
 
さらに、母親の田代家も長崎の医者の家系で、こちらは、鍋島藩の藩医の流れと言う誇り高き家柄で、
祖父は、海軍軍医、上海市工部衛生局長に鎮座していた。
このような白い巨塔の様な親族に囲まれた環境は、私には、大きなプレッシャーとなっていた。
母は、四ツ谷のカトリック系の女学校出身のため敬虔なクリスチャン(キリスト教信者)だ。
そのお陰で私は、幼児洗礼を受けており、洗礼名は、ペトロだ。
私が大学に入学し実家を離れるまで、毎週日曜日の午前中は、母と兄弟達と教会に通っていた。
兄弟喧嘩をする度に、告解室に送りこまれ神父に懺悔をするという日常であったため、
何時もピカピカの汚れのない魂であった。もちろん童貞だった。
 
父親は、子供の教育のためにと神戸の本山で小児科を開業独立した。
1日200人の患者が殺到するよう人気の高い小児科医であっためか、
私たち子供との時間はほとんどゼロであった。
秀才の父のカルテは全てドイツ語。
父の口癖は、「開業医は、一に在宅、二に在宅」
日曜から夜中まで、病気の子供たちのために命を捧げていた。
 
親の気持ちなど全く気にも止めず、勉強よりも
六甲山の野山を走りまわって昆虫採取や水晶取り。プラモデル作り。
 
私が、高三になった頃。
2つ年上の兄貴は、医学部を目指して2浪目。他のいとこも医学部目指して浪人中。
数年前に本家の一番下の従兄弟が、現役で灘中、灘高、東大理Ⅲ(医学部)にストレート入学。
こんな息苦しい恵まれた環境の中で、
ついに私は、親族で初めて
「医者になりたくない!父の様に夜中に救急車で運ばれ来る患者を診察できない!」と
言い出したので両親と周りの親族が大慌て。
 
その時、父が私に運命的な言葉を発した。
「駅の近くの歯医者は、年末一週間の休みを取ってるぞ!きみは、手先が器用だから歯科大を受験すれば」
美大か偏差値の高い医学部に行くためには、まず兄と同じ予備校へ行くつもりで
受験勉強をしていなかった私を見かねての言ったのか?
単純に甘く感じたそのアドバイスに素直に従ってすんなり入学。
今は、歯科医師の仕事が、私の天職だと思えるようになった。
 
正に父の先見の目は、正しかった。
尊敬するに値する父親のおかげで私たち男兄弟3人は、医者と歯医者になっている。
この頃は、治療を通じて人と社会に貢献してると実感できるこの仕事に、
生きがいを感じる事が出来るようになった。
35年の臨床医経験、16700人の登録患者さんのお陰でやっと
田中家の家訓「仁は腕に在り」に近づいた。